好きになればなる程苦しいなんて
君に逢って初めて知ったよ
転校生
僕はぎくりとして立ち止まった。ロンとハーマイオニーが不思議そうに振り返る。
「ハリー? 早く行かないと授業に遅れちゃうわよ」
「またスネイプに罰を与えさせる口実を作る気か?」
僕はくるりと踵を返して走り出しながら、怪訝な顔をする二人に肩越しに叫んだ。
「レポート寮に忘れてきちゃった! 先行ってて。絶対間に合わすから!」
ハーマイオニーが「まあ!」と口に手を当て、
「あれだけ手伝ってあげたのに」
と悪態をついたのは、既に全力疾走していた僕には聞こえていなかった。
もうすぐ授業が始まるせいか、どの廊下も生徒はまばらだ。更に焦り始めた僕は、もっと足を早めて突き当たりの角を曲がろうとした。
ここを曲がって動く階段を上がれば、グリフィンドール寮はすぐ側だ。
階段が運良くこちら岸に止まっていることを祈りながら、遂に角を曲がったその時だった。
ドンッ
「ぅわっ」
「痛っ」
僕は思わず後ろに尻餅をついてしまった。同時に、カシャンと音を立てて眼鏡が落ちる。
どうやら、突拍子もなく向こう側から曲がってきた誰かに正面衝突してしまったらしい。
無言で痛みに耐えながら衝突した相手を見てやろうと目を上げると、ぼんやりだが自分と同じように尻餅をついている人が見えた。
「ごごご、ごめんなさい!!」
僕が見ているのに気付くと、その人は慌てて立ち上がり一度深々と頭を下げてから、僕を引っ張り起こす。
声や僕の腕を掴む手からして、相手が女の子だとようやく理解した――と同時に、罪悪感が僕を襲う。
「ご・・・ごめん」
「あ、あの」
僕はもう一度その人に目を向けた。さっきよりもいくらか近い位置にいてはいるが、その子の髪が黒いということしか相当目の悪い僕にはわからない。
「そ、そんなに痛かったですか? もしかしてどこか怪我しました?」
僕がはっきり見えないせいでひどく顔をしかめていたのか、その子はおろおろと慌てた様子で言った。
はっとしてとたんに恥ずかしくなった僕は、ろくに見えもしない目を廊下に走らせた。
「えっと・・・眼鏡が落ちたみたい」
僕がそう言った直後、
「これ、ですよね」
耳と鼻に違和感を感じた。そして、視界がぱっとはっきりくっきり開けた。
そこには、僕の眼鏡に手をかけた黒髪に漆黒の瞳を持つ切れ長の目の少女が映っていた。
僕は思わずその子に見入ってしまった。ホグワーツではあまり見ないアジア系の顔だと言うことと、
さらに、その子が会ったこともない程に綺麗だったからだ。僕らは一瞬見つめ合い、
「あっ」
そう小さく叫んで、その子は僕の眼鏡から手を離し素早く引っ込める。僕が何も言わずにそのまま見つめていると、彼女はみるみる内に赤くなっていった。
「さぼり発見、さぼり発見♪ フィルチの奴はどこかなぁ?」
いきなり嘲笑うような陽気な声がし、僕たちの間をピーブスが逆立ちの格好でふわりふわりと飛んでいった。
遂に授業が始まってしまったらしい。
「ここにいちゃまずいな」
ピーブスを睨みつけながら呟くと、僕は半ば名残惜しいものを感じつつも鞄を肩にかけて階段に向かった。
「君も早く教室に行ったほうがいいよ」
「あの!」
慌てて呼び止める彼女に、僕は再び振り返る。彼女はちらりと僕の胸元あたりに目をやってから、少し照れ臭そうに言った。
「グリフィンドール生ですよね?あたし今日転校してきたんだけど、なかなかたどり着けなくて・・・もし良かったら、寮まで連れて行ってもらえませんか?」
最後に彼女は柔らかく微笑んだ。僕はどきりとして目を伏せ、頭を掻いた――認めたくないけど、「照れ隠し」ってやつさ。
どっちにしろ、断る理由なんてなかったんだ。授業に遅刻して行ってスネイプに嫌味を言われるのはごめんな僕が、
徹底的にさぼってしまおうと決心していたのは確かだし、それに、この少女が気になっていたのも嘘ではないのだから。
「あー――オーケー。ついて来て」
「あたし。」
階段を上りながら、彼女はにっこりして言った。
「あなたは・・・・・」
僕はあえて答えなかった。前髪に透けて見える稲妻型の傷を、彼女も他のみんなと同様すぐに見つけると思ったからだ。
でも違った。
「名前、何て言うんですか?」
彼女は首を傾げて僕を見ただけだった。
この子、僕のこと知らないんだ・・・。
「僕はハリー。よろしくね」
そう言って笑いかける。彼女は名前を聞いても全く驚きもせず、満足そうに微笑んで、
「よろしく、ハリー」
優しく言っただけだった。
――これが、との出逢い。
「幼くして例のあの人をやっつけたハリーって、凄いよね」
「魔法界の救世主だわ」
みんなはよくこう言う。お陰で、有りもしない『英雄』としての先入観を持ってみんなは僕に接してしまう。
でも、彼女だけは違ったんだ。
は日本から急遽転校してきた生徒で、
突然ホグワーツからの入学許可書が届くまでは自分が魔女だとは知らずに、普通のマグルとして生活をしていた――
そう、境遇としては僕に似てるんだ。それゆえ、彼女は魔法界についての知識を全く持ち合わせていない――
つまり、僕が魔法界で知らない者は一人もいない程の有名人だとは、知っているわけがないんだ。
唯一、だけが僕を一般の、普通の男の子として見てくれた。
ホグワーツで生活しているうちに僕の事情を必然的に知ってしまっても、彼女の態度は全く変わらなかった。
僕はそれが、素直に嬉しかった。
そしてほとんど自然に、僕はに惹かれていったんだ。
が入学してから半年がたった頃。
僕はまだ何も行動を起こせずにいた。
彼女を好きと言う気持ちが日に日に増していって逆に苦しい程だったし、好きになればなる程僕は彼女と自然に話すことさえままならなくなっていた。
「ハリー、このままでどうするの?」
夕食後談話室で宿題をしている時、ハーマイオニーが羊皮紙から目を離しやけに真剣な顔をして聞いてきた。
僕はくるくる回していた羽ペンを止めて、きょとんとする。
「何が?」
すると、今度はロンが呆れたように言った。
「何がって、決まってるだろ。のことだよ」
ロンは最後のくだりだけ、声を押し殺して言った。僕は彼の口から彼女の名前が出てきたことに、眉間にしわを寄せ目を見開いた。
「ど、どうして――僕、何も言ってない」
「まさか、私たちが気付いてないとでも思ったの?」
信じられないと言う声で、ハーマイオニーが聞く。
「そんな――」
「ばればれだよ。四六時中あれだけ見つめてれば」
僕は今や口をぱくぱくと動かすだけで、何も言葉を発せない。
「ま、自身そのことに気付いてるかどうかはわからないけど。一応いい噂は聞いてるから、それが本当なら大丈夫だと思うわ」
ハーマイオニーはちらりとに目をやりながら、一気にまくし立てた。
は僕らが座っている反対側の隅にあるソファで、友達と何やら話し込んでいる。
「噂って何?」
僕はかみつくように聞いた。簡単にばれてしまう程わかりやすいことをしていた自分、それに、気付いていながらも今まで黙っていた二人にも腹が立っていた。
「それは自分で確かめなさい」
彼女らしくつんと言い放つハーマイオニー。その隣で、ロンはウィンクをしてみせた。
「心配するなよ。ちゃんと手は打ってあるから」
僕は顔をしかめた。
ちょっと待て。
『手』って何だよ?
しかも打ってあるって――
ハーマイオニーは鞄の中をがさごそやって、何かを取り出した。
「はい、これ」
そう言って差し出された一冊の小さなノートのような物を、僕は訝しげに受け取る。真っ白な表紙が、スナップボタンのついたバンドで止められている。
「何?」
「の日記――だと思う」
「な――何だって?」
「彼女が大事にしてる日記よ。毎日寝る直前にベッドの上で取り出してるわ。だからきっと日記よ」
僕がまだわかってないような顔をしていたので、今度はロンが口を開いた。
「つまり、隙を見てハーマイオニーが失敬してきたってことさ」
「し、失敬って――」
「いいか、よく聞け」
ロンの顔ががらりとらしくもない真剣な表情になり、机に身を乗り出してきた。
すぐにハーマイオニーも同じようにし、僕は椅子の背にぴたりと張り付く状態になってしまった。
「君はこの日記を持って、みんなが寝室に引き上げるまで待つんだ」
「数分後が日記がないことに気付き、そしてあたしが言うの。『そう言えば談話室にノートが一冊置き去りになってたけど、あれがそうじゃないかしら?』ってね」
「当然、は急いで談話室に探しに来る――大事な日記だからね。そこでようやくハリー、君の出番だ」
今や僕の目には、二人はフレッドとジョージそっくりに映っていた。
「君はあたかもついさっき拾ったかのように、日記を彼女に渡す。この時点で君達は完全に二人きりだ」
「わかる? ハリー」
僕はサーッと胃が冷たくなるのを感じた。
「・・・何?」
「告白するのよ」
「好きだって言うんだ」
はーぁ・・・
自然とため息が出る。
ついさっき、ようやくフレッドとジョージ、リー・ジョーダンの最後の三人が寝室に引き上げたとこだ。
もだいぶ遅くまで友達と残っていたが、同室のハーマイオニーに連れられて悪戯三人組の前についに談話室を後にした。
ロンは眠そうにあくびを連発しながら、早々に姿を消していた。
僕はずっと同じ椅子に深く腰掛けて、机の真ん中に置いた日記を眺めていた。
それがの日記だと言うだけで、僕には何年も探し続けていた宝物のように見えた。
そこにはの毎日が、何をどう思ったかとか、もしかしたら好きな人についても書いてるかもしれない。
じっと眺めているうちに、自分でも気付かずに危うく日記を開きそうになり、僕は慌てて手を引っ込めた。
その時、ドタドタと階段を駆け降りてくる足音がした。はっとした僕は急いで羽ペンを掴み、宿題をするふりをした。
「ハリー?」
「や、やあ」
階段の入口には、僕の恋い焦がれる人――が立っていた。
彼女はにっこり微笑んだけど、すぐに険しい表情になって談話室中を見渡した。どきりと心臓が奇妙に脈打つ。
「・・・どうしたの? 何か探し物?」
「あ――うん。ちょっとね」
は少し前まで友達と話し込んでいたソファに駆け寄り、しゃがんで探す――日記を。
僕はぎゅっと拳を握りしめて一度目を閉じてから、机の上の日記を取り上げ立ち上がった。
「・・・・・もしかして、これ?」
はさっと振り返ると、僕の差し出した日記を見て目を見開き、素早くその手から取った。ぎゅっと抱きしめて僕から一歩下がる。
「よ・・・読んだ?」
僕はの行動にびっくりしてただ突っ立っていた。それでも、彼女の質問には急いで大きく首を振った。
「その・・・床に落ちてたんだ」
それを聞くとは安心したようにいつものにっこり笑顔に戻り、日記を抱きしめたままソファに座り込んだ。
「良かった! 大事な物だから、見当たらなくてすっごく焦ってたの」
僕は何気ないふうを装いながら、とある程度距離をあけて隣に腰掛けた。
「ありがとう、ハリー」
嬉しそうに振り向いた彼女に、僕はどきっとした。離れて座ったつもりだったけど、思ったより彼女が近かったのだ。
その瞬間、僕はと出逢った時のことを鮮明に思い出した。僕の眼鏡に手をかけた彼女は、それこそキスできるほどに近くにいた。
キスできるほどに――
「!?」
はっとした時にはもう遅かった。
僕が見開いた目には、片手で口を覆い、頬を染め、目を丸くして僕を見つめるが映っていた――しかも、互いの鼻先の間が十センチとない至近距離で。
「ハ――ハ――」
は相当驚いたのか動揺を隠せず、「ハリー」とも言えないようだ。
最初は何が起こったのか全くわからなかった。しかしすぐに唇に残る柔らかい感覚に気付き、同時に僕の胃が跳びはねた。
「ごごごご、ごっごめん!!」
慌ててから離れて、二人掛けソファのできるだけ端に張り付く。
彼女の頬はどんどん赤くなる一方だ――いや、僕だってそうだ。顔が、体が熱い。冷や汗まで出てきそうだった。
僕――に・・・キ・・・キ――
どうしてあんなことをしてしまったんだろう。気付いた時には、僕は既ににキスした後だったんだ。
は俯いている。顔が赤いのがわかるだけで、表情は伺えず何を考えてるのか読めない。
ついにやってしまった。
に嫌われてしまったんだ。
もう、終わりだ――
僕は素早く立ち上がり、
「今のは忘れて! 本当にごめん――お、おやすみ!」
最後にそう言って、その場から逃げようとした――が、それは叶わなかった。僕が階段に足をかけた時――
「待って!」
が叫んだ。
「どうして逃げるの?」
の言葉に、僕は勢いよく振り返る。
「逃げてなんか――」
「逃げてるわ!」
は真剣な表情だ。そんな彼女に圧倒されて、僕は黙って俯いた。
は片手に日記を持ったまますっくと立ち上がって、つかつかと歩み寄る。僕は根が生えたように突っ立っているだけだ。
僕の正面に来ると、彼女は僕をよどみなく見つめて口を開いた。
「どうして、キスしたの?」
僕は顔を上げることができず、唇を噛んだ。
「ねえ、どうして?」
の視線が、痛い。
今すぐにでも、逃げ出しかった。でも彼女のただならぬ雰囲気を感じて、僕の足はそこから一歩も動くことができなかったんだ。
「キスしといて、忘れろなんて――忘れられるわけないじゃない」
呟くようにそう言って、は持っていた日記を僕の胸に押し付けた。僕はびっくりして、思わず顔を上げた。
「これ・・・」
「読んで」
有無を言わせないような語調で言われて、僕はためらいながらもその日記を受け取り、ゆっくりとバンドをはずした。
もう一度の顔を見る。彼女は僕から促すように、日記に目を落とした。最初の一ページ目を、そっとめくる。
『11月15日』
そこには、僕の記憶によく残る日付があった。
それは、君と出逢った日。
僕は、丁寧につらつらと書かれたの文字に目を通していった。
『今日は素敵な出逢いがあった』
最初の一行に、僕は自分の目を疑った。びっくりしての顔を見ると、彼女は少し頬を染めて日記を見つめていた。
僕は急いでページをめくっていった。
『1月29日
今日はハリーが談話室で話し掛けてきてくれた。珍しくハーマイオニーやロンが一緒にいないくて、あたしはちょっと緊張してた。
日本の話を色々したら、彼がすっごく喜んでくれて・・・笑ってくれるたび、どきどきしたな』
『2月14日
今日は最悪だった。
せっかくハリーにプレゼント渡そうと思ったのに、いざ渡そうとするとなんでか足が動かなくなって・・・・・
ぐずぐずしてるうちにハリーの手にはカードがいっぱい。相変わらず自分の勇気の無さには嫌になる!
これ書いてる間もなかなか涙止まらないし、なんか最近あたしがハリーを好いてるって噂が女子の間で流れるし、
お陰で嫌がらせまで・・・・・もう、どうしていいんだか――』
そのページには、丸い透明な染みがいくつかついていた。僕はその染みにそっと触れた。
見たこともない、の涙。彼女はその涙を、僕のために流していたと言うのか。
を見ると、彼女は赤いまま今度は僕を見上げていた。
「教えて。どうして・・・キスしたの?」
次の瞬間、僕はを自分の胸に抱きしめていた。彼女が苦しくならない程度に、ぎゅっと。
彼女は何も言わず、静かに抱きしめられている。それでも多分、心の中ではすごく跳び上がってるんだろう。
「ねえハリー、答えて。ずるいよ、あたしはちゃんと勇気出した。逃げなかったよ?」
「お願い。逃げないで」
「好きだよ、。出逢った時から、ずっと」
僕の唇に、柔らかい感触が広がる。の手が、僕の頬を包み込む。
数秒して唇が離れ、僕は目を見開いて彼女を見つめた。そんな僕にはやんわり微笑むと、少し考えるように
「出逢った時から思ってたんだけど、眼鏡ない方がかっこいいよ」
そう言って、いつかのように僕の眼鏡に手をかけ、ゆっくりとはずした。もちろん視界はぼやけたけど、不思議との顔だけははっきりとわかった。
「ごめん、もう逃げないよ。それに嫌がらせなんて、僕の手にかかれば一発でなくなるからさ」
悪戯っぽく笑って、そして僕はまた、彼女にキスを落とした。
一番長い、キスだった。
「噂の正体、わかった?」
次の日、魔法薬の授業へ行く途中ハーマイオニーが聞いてきた。
僕は少し微笑んで、頷いた。
「ああ、わかったよ」
ロンがおおげさにため息をついて、鞄を乱暴に肩に引っ掛ける。
「あーあ。僕もレポート忘れてみよっかなぁ!」
ハーマイオニーが顔をしかめて、ロンをきつく小突いた。
「あれは事故だったのよ、事故!」
僕はふっと笑った。
事故でああやってに会えたのなら
僕はすごく運が良かったんだと思う