頬ばかりか、耳までをほんのりと朱色に染めて。

「……シリウス」
「何、?」

 回した腕に力を込めれば、容易く折れてしまいそうな四肢が妙に愛しくて。

「離れて」
「えーなんでだよ? いいじゃん」

 その震える声を聞けるだけで舞い上がってしまって。















 禁止令













「私はヤダ」

 とかなんとか言いながら、腕を突っ張るその姿が可愛くて仕方ない。
 思わず顔が緩んでしまう。

「俺はヤじゃない」

 出来る限り表情を引き締めたつもりなのに、それでも自然と口の端が上がってしまった。

「私はヤダって言ってるでしょ」

 その言葉と言った表情に。
 ふと、いつもの意地とは違うものが垣間見えた気がして、力を緩めてしまう。その隙を見逃さないところが、さすがといおうかなんといおうか。
 気づいたとき、彼女は俺の腕の中からするりと抜けてエヴァンスの隣に戻ってしまった。

「……ちぇ」

 小さく舌打ちし、俺は手持ち無沙汰になった腕を頭の後ろへと回す。つまんねーの。

「シリウス、君さ。ここがどこだかわかってる?」
「んー授業前の教室」

 リーマスの問いかけに、それがどうしたと答え、俺も自分の席に戻った。そろそろ教授も入ってくる。

「見てるこっちが恥ずかしいよね、本当」

 隣のジェームズがやれやれとため息を吐く。
 いや、お前にだけは言われたくねぇぞ、俺は。

「ん? その目は、僕とリリーの仲を羨ましがっているな?」
「んなわけあるか」

 ノロケ話を聞せる気満々なジェームズを切捨て、「俺にはっていう女がいるんだよ」と付け加えたところで、丁度教授が入ってきた。



「シリウスって、変わったよね」

 授業の帰り道、ふいにピーターに言われた。他のメンバーとは別授業の今日最後の科目を終え、俺たちは寮を目指して廊下を歩いている最中だ。

「どこが?」

 言いながら、俺はすれ違ったレイブンクローの女子生徒を振り返る。いースタイルしてんじゃん。でもまあ、性格は度ギツそうだな。エヴァンスといい勝負しそうだ。

と付き合い始めてから、女癖が直ったっていうかさ」

 ピーターはへにゃりと笑ってくる。その純粋な笑顔に、俺はすいと顔をそらした。なんていうか、ピーターって奴は時々妙なことを言ってくる時がある。こう、俺が答えづらいことを。

「……そうかぁ?」

 俺は誤魔化し笑いをして、上に腕を伸ばした。ピーターが「そうだよ」と変わらない笑顔で頷くのが、横目に見える。

「かったるい授業も終わったことだし、と放課後デートでもすっかなー」
「そうそう、そんな風に一筋になったよね」

 蒸し返すなよ、この野郎。
 おかげで俺は、また奴から目をそらすはめになった。

「何言ってんだよ。いつだって俺は女一筋だろ?」

 と、再び誤魔化して話題をそらす。

「今回出た課題、図書館行かないと無理そうだよなー。いつ行く?」
「いつでもいいよ。だってシリウス、僕が指定すると“その日はと約束してるから”って返してくるんだもん」

 ……こいつ、わざとか?
 いっそ、力ずくで黙らせたい。

「あ、でも早めにやっちゃいたいかなー。最近さ、どの科目の課題も難しくない? 僕、他の科目でも時間食っちゃいそうだし」

 いや、天然だ。親友殴るのはやめとけ俺。俺はそう自己完結して、そうだなと相槌した。
 言われて見ればそんな気がしないでもない。試験が近いせいか、やたらと課題が難しくなってきている。

「俺も早く終わらせて遊びたいし。今週末はホグズミードもあるからな。明日の放課後でいいだろ」

 俺はそれで会話を無理やり終わらせ、太った婦人に合言葉を言って寮に入った。
 談話室には、まだ人がほとんどいない。まあ、俺たちが早く終わりすぎたんだろう。課題が難問な分、今回の実習はやたらと簡単だった。時計をみれば、今授業が終わる時間だ。
 と、思う間もなく鐘の音が響く。

「やっぱり早かったな」

 後ろにいるピーターを振り返り、俺はソファに座ろうと誘った。早く終わった日は妙に気分が良い。優越感、とでもいうんだろうか。

「そうだね」

 ピーターは頷いて暖炉の前のソファに腰掛けた。

「なんか眠くなってきちゃったなぁ」

 座った早々そんなことをぼやくピーターに、俺は笑い声を漏らして頭を叩いてやった。もちろん、軽くだ。

「俺は、野郎に肩やら膝やらを貸す趣味はないからな」

 冗談交じりに言うと、ピーターは至極真面目な顔で返してくる。

「僕も、シリウスにそんなもの貸して欲しくないよ」

 いつもは大人しいピーターが、さらっとそんなことを言うもんだから虚をつかれて一瞬目をしばたたせてしまう。実はジェームズが変身術で化けてるんじゃないだろうか。もしくは、エヴァンスあたりが何かを吹き込んだとか。
 そんな俺に気づかないのか、ピーターは手足を伸ばして息を吐くと、ぼそりと呟いた。

「リーマス、早く戻ってこないかなぁ。眠気覚ましにチェスやりたいや」

 こいつが放課後いつもリーマスとチェスをやっているのは知っていた。知っていた、けど。
 ……なんか今、さりげなく存在を否定された気がするのは、気のせいだろうか。

「俺じゃチェスの相手にもならないって?」

 思わずけんか腰に問いかけてしまう。
 が、ピーターはきょとんとして俺を見返してきた。……これだから察しの悪い奴は扱いづらい。

「シリウス、チェスしたいの?」
「いや、別にそういうわけじゃ……」

 空回ってる。
 と、そんな一文が頭に浮かんだその時、寮の出入り口からどやどやと騒がしい一団が入ってきた。

「シリウス達、ずいぶん早いね」

 と、一番先に入ってきたのはリーマス。
 俺はそこでほっと息を吐いた。

「あら本当。私達だって、早く終わった方なのに」

 とかなんとか言いながら、リーマスの(様になっている)エスコートで降りてくるエヴァンス。
 ――あれ? いつもなら、ジェームズがバカ騒ぎしながらエヴァンスの手を取るのに。

「一番乗りだと思っのにねー」

 くすくすと笑いながら、リーマスのエスコートを断って自力で降りてくる。うん、そういうところ俺は好きだぞ。

「ジェームズはどうしたの?」

 向かってくる面々にピーターが問いかける。
 リーマスが肩をすくめて外を指差した。

「標的みつけて走って行ったよ。今日はからかいたい気分なんだってさ」

 ああ。スネイプか。
 あらかた、中庭にでもいたんだろう。

「よくリーマスも一緒にいかなかったな?」

 俺は三人のために端によってスペースを空けながら問いかけた。たいていの場合、そこは一緒に行くもんだ。

「外はまだ寒いでしょ」

 ……そこで納得してしまう自分が、何か怖い。
 そんな会話をしているうちに、エヴァンスはちゃっかりしっかり暖炉に一番近い位置に座っている。
 で、俺の隣にはというと。

「最近また冷え込んできてない? 冬場みたいに夕食でホットチョコレート出ないかなぁ」

 チョコレートの話題をさらっと話し始めたリーマスがいた。……いや、正確には。

「お前、なんでわざと俺との間に入ってくるわけ?」

 とまぁ、こんな風に俺は思ったわけで。
 思うより先に口が動いてしまうのが、俺の欠点かもしれない。

「心外だな。偶然だって」

 リーマスが表情を崩さず(笑ったままで)返してくるものだから、ついひきずられて笑顔になってしまう。

「へぇ?」

 ぜったいわざとだ。
 と、一触即発の雰囲気になって数秒。

「ちょっちょっとシリウス! そんなことくらいで怒らなくてもいいんじゃない?」

 耳に心地よい、ソプラノの声が静止をかけてくる。勝気な口調が、またいいんだよなぁ。とか思ってる俺は重症だ。
 俺は小さく息を吐いて、リーマスの向こう側にいるに目を向けた。きっとした表情が視界に入る。
 そんな彼女に、俺は至極真面目に答えた。

「俺は、たとえ親友でもお前を他の男の隣に座らせたくねーの」

 ちなみに“男”の中でピーターは除外することにしている。
 瞬間、の顔が赤く染まった。
 こういう台詞にも、行動にも慣れていない彼女のその反応は、いつものギャップも相まって妙に可愛い。

「男の嫉妬……ね」
「聞いてるこっちが恥ずかしいわ。ね、ピーター」
「うん。っていうか、僕も彼女欲しいなぁ……」

 ……外野は黙っとけ。

「だから、こっち来い。端に座っとけ」

 ぽんと、隣を指し俺はを手招きした。
 が、うつむいたまま一向に来る気配がない。

?」

 おーい、と呼びかけると。
 次の瞬間、ばっと顔を上げて真っ赤な顔のままは言った。

「シリウス? その、さ……スキンシップもうちょっと控えてもらえない?」

 ……はい?

「何のことだよ?」

 そのまま聞き返すと、彼女は気まずそうに視線を泳がせた。

「だからさ、その……」

 珍しく歯切れの悪い言い方に、俺は思わず顔をしかめる。

「だから?」

 先を促すと、はぼそぼそと言った。

「抱きしめたり、やたらとキスしたり、所構わず変なとこ触ったり、皆の前で恥ずかしいこと言ったり」

 ……つまり、触るなと。
 俺は理不尽なご希望に、ますます顔がゆがむのがわかった。

「なんで? いいじゃん、付き合ってんだし」

 反論すると、はふいと顔を背け「そうだけど」と言ったきり続けようとしない。
 の故国――ニホンじゃそういうことをあまりしないことくらいわかっているつもりだ。初めて“おはようのちゅ―”をした時には、すごい勢いで殴られたし。
 俺は仕方なく頷いた。

「わかったよ。ただし、一日だけな。それ以上は我慢できない」

 っていうか、一日持つかもわからねぇ。
 ……そこまではさすがに言えなかったが。

「一週間よ」

 が。それまで黙っていたエヴァンスがいきなり口を挟んでくる。俺はエヴァンスを睨んだ。

「俺に死ねっていうのか?」
「そんなことで死にはしないでしょ」

 リーマスが呆れたと肩をすくめる。人の揚げ足を取るのが好きな奴め。

「一日だけならいい。それ以上は無理だし絶対約束しない」

 俺は二人を無視することに決めて、に言った。
 守れない約束なんてするもんじゃない。
 は迷っているのか、また黙り込んでしまう。……いや、そんな赤い顔のお前も好きなんだけど。

「……わかった」

 瞬間、俺は顔が自然と緩んだのを感じた。笑み、というよりはほっとしたといったほうがいい。触るなって、好きな女に触らない男がいたら一度お目にかかりたいもんだ。
 ジェームズを見てみやがれ。

「まったく、もブラックには甘いんだから」

 エヴァンスがぶつぶつ言っているのが聞こえたが、無論無視だ。あいつとまともに話すと、悔しいが勝てないことを知っている。

「じゃ、今からね」
「は?」

 ……のその言葉に、俺は凍りついた。いや、せめて明日の朝からとか。
 それに、よ。

「俺は今からお前と放課後デートを……」
「デートは別にいいよ? でも、触っちゃやだ」

 ……なんか俺、見事にはめられた気がする。


 かくして、俺の長い長い一日が始まった。


***


「手ー繋ぐのもダメだからね」

 一言で、俺は“放課後デート”に向かうときに定番だった、“手を繋いで歩く”ことすらあきらめるしかなかった。そっと伸ばしていた手を戻すと、深く深く息を吐く。

「一日持つかな、俺」
「リーマスも言ってたじゃない。そのくらいで死にはしないから、弱音吐かないのー」

 なんでそんなに機嫌いいんだよ。
 言いかけた言葉を飲み込み、俺は図書館の扉を開けた。これもまたのご希望なわけで。曰く『図書館で静かに本が読みたいのよね』だそうだ。つまり、言外の意味は“図書館で変なことするなよ?”ってことなんだろう。
 扉を開けた瞬間、西日が酷くまぶしかった。目を細め、赤くなった窓の外を見てまた息を吐く。
 夕焼けに染まった首筋が綺麗だなーとか、あのさらさらとした黒髪に触りたいだとか。
 そんなことしか頭に浮かばない。普段ならすぐに行動に移すだろうな、俺。

「シリウス? 入らないの?」

 ふいと振り向いてきたその笑顔が、また不意打ちで。。お前、無防備すぎ。

「……ああ、今行く」

 俺は極力の方を見ないようにしながら、図書館の奥へとすすんだ。
 話す気力も無くなって、空いた席に腰掛ける。今日は本を読める気分じゃない。

「読まないの?」
「いいから選んで来いよ」

 気を遣うに、俺は自然と笑みを浮かべていた。実は本を読む、下に目を向けたときの彼女の顔が、たまらなく好きだったりする。本人には言っていないが。
 おずおずと本棚の間に消えていくその姿を見送ったあと、俺は背もたれに体重をかけた。高い天井を見上げ、明日の今頃は何をしでかしているだろうかと考える。我慢に我慢を重ねた俺は、どんな行動に出るんだろうか。

「……想像したくねぇな」

 小さく呟き、が品定めをしているであろう本棚の方へ視線を戻す。

「つーか、いきなり過ぎ」

 ぼやいてみても、結局逆らえない。のは、きっと先に惚れた弱みというヤツだろう。
 そんなことをとりとめもなく考えていたら、いきなり後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには見慣れたその姿。にぃといたずらに笑顔を向けてくる。

「よう、シリウス」
「驚かすなよ」

 小さく呟いて、俺はから視線をはずした。その前に我慢なんて出来るのか、俺は。

「ねぇ」
「あ?」

 傍に誰かが積んだ本を適当に取り、ページをめくる。“狼の見分け方”を無理やり読んで、俺は変な意識を頭から追い出した。
 その間に、は俺の向かいの椅子へと向かい腰掛ける。手には、しっかりと選んできたのであろう本があった。

「シリウスの好きなものって何ですかね?」
「お前」

 即答して、俺は本から顔を上げた。が、またも不意打ち。赤くなったが、視線を泳がせている。

「で、そいつに触れるなっていわれて今すっげぇ我慢してるとこ」

 思わず本音をぶちまけると、は完全に顔をそむけてしまった。

「バーカ」

 ……その反応はやめてくれ。もう少しで手が出そうになり、俺は必死にこらえた。そりゃもう、一生分の理性を使って。

「それは冗談として。さっきの答え、女の子の間違いじゃなくて?」

 いきなり真顔を向けられ、俺は間抜けにも「へ?」という声を漏らしてしまった。
 は、冗談ッぽくわらって続ける。

「だってシリウスは、女好きでユーメイだし」
「ああ、それは事実だな」

 この学校に入る前からやたらと綺麗に見繕った女を見てきたせいか、物心ついた頃にゃこうなってたし。
 の言葉に頷いて、俺は本から顔を上げた。

「女は嫌いじゃない」
「……。へぇ……」

 なんだ。今の間と、その仏頂面は。
 俺は眉を寄せて、本を読み始めたを見た。心なしか、イライラしているようにも見える。

「なんだよ」

 思わず声が低くなる。俺は、持っていた(読んでもいない)本を閉じて頬杖をついた。

「今日はずいぶんと機嫌の浮き沈みが激しいな?」

 するとはちらりと視線だけをこちらに向けてくる。うわ、その流し目最高にイイわ。むしろやばくないか、俺の理性が。

「別にぃ」

 が、その時。図書館全体の明かりが暗くなっていく。気がつけば、そろそろ閉館の時間だった。

「っと。やべぇな、時間。悪いけど、俺先に行ってるわ」

 言い終わるが早いか否か、席を立ち足を速めに動かして出口へと向かう。暗くなるのがあと二、三秒遅けりゃやばかったな。
 そっと図書館の扉を閉め、俺は再び息を吐いた。なんか妙に疲れる。理性を試されてるのか?

「広間行って先に夕飯食っちまお」

 このまま一緒にいると、約束なんて守れそうに無い。
 そうと決めると、俺は半ば走るごとく夕飯……じゃなかった大広間に向かった。


***ヒロインサイド


 っにあれ、なにあれ!
 女好きだってことは知ってるけど、普通彼女の前で「女は嫌いじゃない」とか言う? 女の子なら誰でもいいわけ?
 挙句、私の機嫌が悪くなったのを感じるや否やそそくさと逃げるし。面倒ごとはごめんってこと?

「さいっってーっ」

 私は小さく呟いて、読んでいた本を持ち立ち上がった。それを借りて、図書館を出る。来るときは真っ赤だった夕日は、もう沈みかけ窓の外には星が幾つか瞬いていた。

「私は触り放題の女じゃないってーの」

 夕日のバカヤロー。心の中で呟いて、小さく息を吐いた。
 私と付き合うまでも、女の子の影が切れたことなんてなかったっていうし。
 だから、確かめたくてあんなこと言ったんだけど。

「……ま、シリウスだしね」

 自分に言い聞かせるように軽口を叩いて、私は寮に向かって歩き始めた。どうせシリウスも寮に戻っている頃だ。


 が、そんな私の予想は大ハズレ。彼はまだ戻ってきていないと、談話室にいたピーターから知らされる。

「え? なんで?」

 思わず口をついて出る問いかけに、リーマスが肩をすくめた。片手にはチェスの駒を持ち、彼の正面にはピーターがチェス版を見てうなっている。

「僕たちは何も知らないよ。君とシリウスが出て行ってから、ずっとここでチェスをしていたから戻ってきてないことは確かだけどね」

 リーマスはそこまで言って、すっとピーターに向き直った。ことんと駒を置いて、いつもの意地悪い笑顔。

「チェックだ」
「ええ!?」

 ピーターがわめく。どうやら彼らは本当に知らないらしい。
 私はため息をついて、ソファに座った。図書館に行く前、ひともんちゃくあった場所だ。

「なんなのよ、いったい」

 ふと言葉が漏れる。背もたれに瀬を預けると、額に腕を押し当て、私は天井を見上げた。
 普段ならジェームズといい勝負で、どこにでもひっついてくるのに。――そういえば、そろって女子寮に無断侵入してきたこともあったっけなぁ。

「ジェームズは戻ってきたの?」

 天井を見上げたまま、ぼーっと問いかける。すると、背後からピーターの返事がした。

「ううん。まだだよ」

 なんだか声がこわばっている。ずいぶんと劣戦のようだ。
 そうだ、シリウスは途中でジェームズと会ったんだ。それで何か新しいイタズラでもしているんだろう。
 だけど、そんな風に自分に言い聞かせても胸のもやもやは消えなくて。最近膨れてきた感情は、なんだかもどかしい。

「うう、負けた」
「二七勝十九敗だ」

 二人のそんな会話のあと、何かを書く音がする。スコアでもつけているんだろう。ピーターはチェスが決して弱いはずないんだけど、リーマスは彼よりもずっと強い。二十七勝という言葉をかみしめつつ、そんなことを考える。

、僕たち夕食行くけど一緒に行く?」

 問いかけられ、私は慌てて顔を上げた。見れば、チェス版は綺麗に片付けられ、他の寮生もまばらだ。
 どうやらずいぶんと長い間、ぼーっとしていたらしい。
 私は並んで立っている二人に頷き、勢いをつけて立ち上がった。

「うん、行こうか」

 もしかしたら、広間でシリウスに会えるかもしれないし。

 ――……。

 なんて、思っていたのが甘かった。大広間にも、シリウスはいなくて。リリーとジェームズがいちゃついているのを見せ付けられただけ。
 寮に帰っても、シリウスの姿は見えない。他の生徒に聞くと、もう男子寮に行ったとのこと。……夕食はいつ食べたんだろう。

「私、なんかさけられてる……?」

 課題をやるリリーの横で、私はもんもんと悩んでいた。苦悩って、こういうこと言うのかな。

「偶然じゃないの?」
「いつものシリウスだったら、偶然も何も、一緒にごはん食べたがるもん」

 リリーの助言を全面否定すると、私は息を吐いた。リリーはそれもそうだと妙に納得している。……まあ、シリウスだしね。

「触るなって言ったのがよほど堪えているんじゃないの?」

 本を読んでいたリーマスが、会話に入ってくる。
 そのあまりの唐突さに、私は間抜けにも「ほへ?」なんて返事を返してしまった。
 リーマスが小さく笑い声をもらして、本を閉じる。

「だからさ、あのシリウスにとってはに触らないっていうことはすっごく辛いことなんじゃない?」
「……リーマス、さっきと言ってること違わない?」

 私は思わず問いかけ返してしまった。だって、私がシリウスに「一日触るな」宣言をした時、彼は“そんなことで死にはしない”って言っていたわけで。

「ああ、だってさっきのはおもしろそうだったから」

 しかし彼は、私の問いかけにさらりと笑顔で答えてくれた。リーマスって時々わからない。

「……そう」

 でもそれで納得する私も、私か……。
 私は小さく息をついた。

「やっぱり、ただの遊び相手なのかなぁ」

 きわめて明るい口調で言ってみたものの、むなしいうえに悲しい。
 私のことなんで触ることができなくちゃ、どうでもいいのかもしれない。

「まさか」

 と、そこでピーターが割って入ってくる。手には羽ペン。彼もまた、課題と格闘している最中だったのだ。

「シリウスは変わったと思うよ。に会ってからさ」

 ピーターは言いながら、私に笑いかけてくる。こう、彼の笑顔には不思議なものがあって。……信じたくなっちゃうのよね、言ってることを。

「……ほんと?」
「なんでウソ言わなきゃいけないの?」

 逆にそういわれ、私は思わず顔が緩んでしまった。
 それでもまだ、不安は消えなくて。また、ため息が漏れる。

「ありがと、ピーター」

 かろうじてそれだけ言ってみたものの、不安は消えずそれどころか大きくなっている気がした。もやもやと、もどかしさとが混ざって気分は滅入るばかり。

「実際に会ってきたら?」

 そこでまた、別の声。見れば、男子寮からジェームズが降りてきていた。階段から、こちらに向かって歩いてきている。

「なんなら、コレ貸してあげるけど?」

 これ、といいながら彼は背中に隠していたのだろうなんともいえない生地のマントを出してきた。言わずと知れた彼の必需品、透明マントだ。

「会うって、男子寮?」
「もっちろん」

 部屋の場所まで言いそうなジェームズに、私は慌てて静止の言葉をかけた。

「ちょっと待ってよ。それって違反……」

 そこまで言いかけて、息をつく。もともとそんなこと気にするような人じゃないし、シリウスだって一度女子寮に来たことがある。

「行こうかな」

 頷くと、ジェームズはマントを差し出して、ウィンクなんてものをしてきた。

「がんばってねー」

 その行動が妙にむかつくのは、なんでだろう。……きっとジェームズ、だからだろう。
 私は彼の言葉には答えず、黙ってマントを受け取る。「冷たいなぁ」だとかそんな言葉も無視だ。だってむかつくから。

、いっそ別れたらどう?」

 リリーはリリーでとんでもないことを言ってるし。
 私は「まさか」と答えて、マントをそっとかぶった。もちろん、他の寮生には気づかれないように、だ。
 するりとしたマントの感触が、どこか冷たい気がする。
 そのまま私は、男子寮へとつながる階段に向かった。なんとなく、緊張してしまう。そりゃ、いつも規則をやぶっているジェームズたちやそれに慣れてしまったリリーは、なんとも思わないだろうけど。私だって、伊達にやつらの友達やっているわけじゃないけど。やるのと見慣れているのとは違う。
 私はそっと階段を上った。今はそんな緊張 ( こと ) より、確かめたいことがある。


***シリウスサイド

 “バイク”というマグルの乗り物が特集された雑誌を、見るともなしに眺める。気は乗らず、頭の中はのことばかりで。

「……まいったな」

 苦笑しつつ呟いて、俺は天井を見上げた。古ぼけた天蓋が視界に入る。
 本当に、参った。自分がひとりの女に夢中になるなんて、思いもしなかった。
 ピーターの言葉が、ふと耳によみがえりまた失笑を誘う。――『そんな風に、一筋になったよね』
 まさか、たったひとりの女に触れることが出来ないだけでこんなに悶々と悩むことになるとは。

 と、その時ノック音が思考をさえぎる。どうせジェームズあたりが戻ってきたんだろう。またうるさく一方的に相談をさせられそうだ。
 が、いつまで経っても入ってくる様子が無い。声さえしないから、誰かが部屋を間違えたんだろう。

「でもま、念のため……」

 自分(正確には自分たち、だが)の部屋の前にいつまでもいられるのは、気持ちが悪い。
 そんな思いから、雑誌を閉じた。ベッドからおりてドアを開ける。――誰もいない。

「なんだ、やっぱり誰かが部屋をまちが――」

 言いかけた途中で、声が詰まる。
 最初に浮かんだのは、何故、という疑問。次にはジェームズの透明マントと、おせっかいな親友の顔。

「……襲われに来たのか?」

 透明マントを腕に抱えたへ、ため息混じりに問いかける。
 は「そんなわけないでしょ」といかにもらしく強気に言ってのけ、すたすたと部屋の中に入ってきた。
 おいおい、本気かよ。これで触るなって? 拷問だ。

「シリウスのベッドってどれ?」
「バイク雑誌が上にのってるソレ」

 問いかけに自分のベッドを指差すと、は「ふーん」などと言いながらベッドに飛び乗る。……頼むから居座らないでくれ。
 パラパラと雑誌をめくりはじめるに、俺は顔をしかめずにはいられなかった。

「何しにきたんだ?」

 問いかけると、は雑誌から顔を上げた。真剣なその表情は、どこか怒っているようにも泣きそうにも見える。
 ただならぬ空気を感じ、俺はの隣に座った。その白く綺麗な手から雑誌を取り上げ、机に向かって放り投げる。雑誌の落ちる音が、妙に大きく聞こえた。
 俺が隣に来たからなのか、下に向けられたの顔を俺は無理やりのぞきこんだ。

「って、なんでいきなりそんな顔?」

 のぞきこんだとたん、睨みつけてくる彼女の瞳に思わず顔を上げる。泣いているのかと思えば、これだ。相変わらず、期待も予想も裏切ってくれる。

「こんな顔で悪かったですねー。あいにく、簡単に泣くようには出来てませんので」

 しかも思考まで読まれてやがる。

「そーかよ」

 そんな顔さえ愛しいと思っちまう俺は、ジェームズより重症かもしれない。……なんか負けてるみてーで悔しいけど。
 触れたくて、キスしたくて、抱きしめたくてたまらない。あんな約束してなきゃ、即実行しているっていうのに。

「……で、何しにきたんだ?」

 再び同じ問いかけをすると、はじっと俺を見つめてきた。いや、だからそういうことすんなって。そのままじゃ理性がもたねーから、そそくさと視線をはずす。

「なんでさけられてるの、私」

 聞こえたのは、そんな言葉。届く声 ( それ ) は、ひどく弱弱しかった。視線を元に戻すと、はまたうつむいている。
 そうしなきゃいけない状況を作ったのは、お前だろうに。
 勝手なヤツだ。と思いつつも、俺にさけられて落ち込むにほんの少し喜びを感じる。まあ、いつまでもそうして落ち込んでいられちゃ困るから、俺はそんな思考も早々に口を開いた。

「約束したからな」
「他の女の子と?」

 ……なんでそーなる。

「はぁ?」

 思わず声を荒げてしまった。

「他の女って……どんな約束だよ」

 と、同時に笑い声が漏れる。どうやら俺の恋人とやらは、飛躍しすぎの多大な想像力を持ち合わせているらしい。

「本気で言ってるんだから! 他の女の子と、私と会わないとかそんな約束してたんじゃないの?」

 むくれるを、俺はたまらず腕におさめてしまった。
 ――ああ、約束破っちまったなぁ。あとでエヴァンスあたりにしばかれそうだ。
 ふわり、と。甘く懐かしい香りがする。数時間触らないだけで懐かしいなんて、我ながらバカげてるとは思ったが。事実だった。

「ちょっシリウス? 約束はどうしたのよ!」

 あくまでも強気で抗議するの声は、くぐもっている。腕の中で抵抗するを、よりいっそう強く抱きしめて俺は笑い混じりに言った。

「その約束守らせておいて、落ち込んでるのは誰だよ?」
「やっ約束って……そのことだったの!?」

 がばっと顔をあげ、丸い目をさらに丸くするに、俺は無言で頷いた。顔が緩んで仕方ない。そうか、妬いてくれていたのだ。この女は。

「お前の……のそばにいると、理性が保てくなるんでな」

 耳元でそう言ってやると、腕の中の華奢な体がこおばるのを感じた。そっと顔を離せば、ふいとそむけるその横顔が真っ赤に染まっている。腕の力を緩めても、その場所を動かない。

「っバカ……」

 耳を押さえてそんなことを言うものだから、また顔が緩む。
 俺は出来る限り、理性を保ちつつに言った。

「で、その約束そろそろ時効だと俺は思うんだけど……その前に、理由 ( ワケ ) おしえてくれよ?」

 真剣(に装った)な俺に、そむけていた顔を戻す
 そこでまた、耳元に口を持っていく。

「なんであんな約束させた?」

 再び赤くなっていくそいつを、今度は顔をそらさせないよう顎を固定する。

「……し、シリウスッ」

 は、焦ったように声を上げる。が、俺は沈黙を決め込んだ。そうでもしないと、理由なんて話してくれそうに無い。まあ、どんなことを思ってそんなことをしたかは、大体予想がつくけどな。
 数秒の沈黙の後、は観念したのかぼそりと、言った。

「――ったんだもん」

 目を伏せ、しおらしく言うその姿はすっげーそそる。けど、声が小さすぎて聞き取れない。

「聞こえない」

 それを告げると、はきっと俺を睨み上げてきた。

「他の女の子にも同じことしてるんじゃないかって、思ったからっ!」

 吐き捨てるように言い終わったとたん、かっと赤くなっていく。
 俺は笑いが止まらなかった。なんでこいつは、こうも俺の言って欲しいことを言ってくれるんだろう。

「それで、試したってことか」

 言えば、は無理やり俺の手を払って再びそっぽを向く。可愛くて、それでいて強気で。

「……俺、そろそろ限界。抱きしめていいか?」
「す、好きにすれば?」

 ……素直じゃないところも、またイイ。
 俺は再びを腕の中に取り込むと、また妙な衝動に駆られた。これが、図書館で想像したくない“我慢に我慢を重ねた結果”ってヤツだろう。

「すっげーいっぱいキスしてーや」

 独り言のつもりだったのに、下から返事が返ってくる。

「し過ぎないでよ?」

 戻ったその勝気に、俺は笑い声を漏らして腕に力を込めた。

「こういうことすんの、お前だけだから」
「ん……」
「キスなんてお前と出来ないくらいなら、一生お前にしかしねーから」
「うん」

 言うたびに返って来る、弾んだ返事。
 回した腕に力を込めれば、容易く折れてしまいそうな四肢が妙に愛しくて。
 その声を聞けるだけで舞い上がってしまって。

「んじゃ、さっそく……ここベッドだし?」
「ちょ、ちょっと待った!」

 とかなんとか言いながら、腕を突っ張るその姿が可愛くて仕方ない。


 

 その後、結局おあずけ食らった俺は、降りていった談話室でからかわれたり、しばかれたり。
 ……とりあえず、明日ピーターと約束した課題は、延期になりそうだ。